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自由主義政党の理念

■自由主義政党の理念

片山さつき

これまでの日本では、日米安全保障条約や天皇制などのイデオロギー問題を別として、経済や社会制度について、与野党間の政策理念の対立が顕在化することはほとんどありませんでした。

議会制民主主義の祖国イギリスでは保守党と労働党、アメリカでは共和党と民主党というように二大政党制が確立している国では、「保守対リベラル」という政策理念の対立が、比較的はっきりしていると言えるでしょう。

ちなみにアメリカの草の根保守は、
1.フリー・エンタープライズ(自由な企業活動)
2.スモール・ガバメント(小さな政府)
3.ディレギュレーション(規制緩和)
が3本柱で、極論すれば、成功した人が寄付をして社会を支える、という考え方です。

ただし、自由とは何をやってもいいわけではありません。
民主党もリベラルで共和党の伝統的な保守に対立しているとはいいながら、じつは資本主義経済をベースにしています。

昨年末、保守や資本主義を揶揄する問題作で次々と話題を集める映画監督マイケル・ムーアが、『キャピタリズム−マネーは踊る』という映画を引っさげて来日しました。ある雑誌がインタビューしたとき、彼はこう言ったそうです。

「いまは21世紀だ! 社会主義なんてありえない!」

アメリカの建国の理念は、自由・民主主義・自助努力であり、それを前提としたうえで、民主党は比較的、労働者側に立ち、妊娠中絶などに寛容な立場をとっているということでしょう。

日本の自民党は、政党の理念として自由、民主主義、平和を掲げる自由主義政党であり、経済においては資本主義と自由競争を支持し、どちらかといえば企業が国際競争を戦えるように支持する発想に立ってきたと言えます。と同時に、社会政策のなかでも「所得の再配分」を重視してきました。そして、その具体策の作成と差配を、ほとんど官僚に委ねて、一見うまく(?)やってきたのです。

一方、かつての社会党や民主党は、社会主義政党として組合側に立ってきました。日本の労働組合は企業内容が主流で、比較的穏健であり、そのため、「55年体制」のもとで本格的な政権交代は一度も起こりませんでした。というか、その必然性もなかったのかもしれません。

日本ではこの間ずっと、そしていまでも、戦時期の「1940年体制」が温存され、官僚の力が一貫して強く、法律もほとんどが政府提出の「閣法」、ちまり官僚作成のものです。国会会期中に100本を超える法案をスムーズにせいりつさせるため、政党vs政党の剥き出しの政策理念の対立が顕在化しないように、いわゆる「国対政治」が行われてきたのです。

しかし、今回はじめて、選挙によって大差で政権交代が起こり、自民党は野党に転落しました。そして、新しく発足した政権は民主党に社会党と国民新党が連立し、明らかに中道左派・社会主義を志向しているように見えます。

これから日本の生き残りを真剣に考えるとき、個人の自由と自立を基盤にした自由主義かつ資本主義経済を柱に据えた対立軸の政党がなければ、“振り子”の受け皿がなくなってしまいます。もちろん、自由=野放図ではありません。選択の自由、一定のルールのもとで自由を守るということです。

日本では、自由というのは、右からも左からも攻撃されやすい言葉です。自分勝手や自己中心ともとられがちです。日本の右派は、国家主義と全体主義の方向から統制主義に向かいがちです。左派は、社会主義、計画経済から、やはり統制に向かうのです。日本の右翼と左翼は、天皇制、国旗・国家、安保(日米安全保障条約)・自衛隊、外国人参政権などのイデオロギー的な分野以外では、驚くほど体質が似ています。

自由主義のベースには個人主義があり、個人の自立が前提ですが、日本ではそもそも子どものころから自分で考え、自分の意見を積極的に発表し、相手と討論するような教育がなされていません。「我思う、ゆえに我あり」のデカルトとは大違いなのです。もともと国家統制に迎合しやすい下地があるのです。

だからこそ、いま、ひたひたと“そこにある危機”になりつつある独裁を避けるためにも、自由主義政党の理念とは何なのかという旗を、しっかり立てておかなければなりません。

ギリシャの哲学者プラトンは、民主制のもとで指導者層はもてる人びとから集めて、大部分を自分で着服できる範囲内で民衆に分け前を与えるが、やがて金持階級と民衆は対立し、民衆はその慣わしとして1人の人間を押し立てることで、独裁者はいつも民衆指導者から芽生える、という趣旨のことを述べています。

これまでの自民党は、そういう理念を真正面から据えたことはなかったように思います。党内対立を顕在化させないため、それを避けてきた面があります。そして、誰もが反対しようのないシンプルな言葉を選びながらも、自己責任を基本にして政策を断行しようとしたはじめての自民党総裁が小泉純一郎氏だったと思います。

「官から民へ。民間にできることは民間に。自由な活動が人間の力をいちばん引き出す。それでも足りなければ社会保障で支える」

小泉氏のスピーチや政権時代の公文書は、わかりやすい短いフレーズしか使われておらず、「市場原理主義」という言葉は見た記憶がありません。おもしろいことに、1998年の民主党の基本理念には、「経済社会においては市場原理を徹底する」と書かれています。

小泉氏と、自民党をある一つの理念で枠組みすることについて話をしたことがありますが、氏は「うーん」と考え込む様子でした。

「それをやろうとすると、自民党は分裂する」

小泉氏はそう案じていたのではないでしょうか。だから、自民党を分裂させないように、「小泉個人商店」で何とかつなぎとめようとしたのでしょう。

たしかに、小泉氏は5年半の間、自民党を延命させたのです。しかし、個人商店の規模は三分の一になり、自民党は下野することになりました。政策理念の対立がないかぎり、“振り子”はもどしようがありません。そういう力学が働かなくなるからです。

民主党が財政や外交で行き詰まってしまう前に、自民党はすみやかに立て直しを図る必要があります。それが二大政党制、議会制民主主義のもとで独裁を生まない知恵であり、国益ではないでしょうか。

プラトンは、独裁者は、人びとの期待を背負って現れるが、やがて自分に背くものを弾圧し、結局、疑心暗鬼の人になるとともに、国全体み弱体化する、という警鐘も鳴らしているのです。


■自由主義政党の理念

片山さつき

日本では、社会主義的な考え方は比較的わかりやすく、かつ受け入れやすいと言われます。かつて「一億総中流」と言われたように、日本人は所得格差などがあまりない、分配の平等な社会に安住したがる傾向が強く、統制に流されやすいというか、抵抗感が薄いように思われます。そういう国民性を背景に、右派から左派までさまざまな意見をもつ人たちを取り込む自民党支配がずっと続いてきました。

与野党間の「財源づくり競争」というものも、もともと盛んではありませんでした。財源づくりとか、増税という“悪役”は大蔵省の仕事、というのが55年体制下での政治的役割分担でした。イギリスの議会では保守党と労働党の間で「財源づくり競争」についてたえず侃々諤々と議論され、総選挙でも激しい火花を散らしています。

1997年4月、橋本龍太郎内閣のときに消費税が引き上げられましたが、それはすでに3年前の村山富市内閣のときに決められていたものであり、「財源づくり競争」によるものではありませんでした。

政権交代で登板した民主党政権は、次の総選挙まで4年間、消費税の引き上げは行わないと公言し、ムダ遣い削減による財源捻出や特別会計の見なおしで社会保障財源が捻出できるかのように強弁してように見えます。

ムダ遣いの撲滅は、自民党政権時代にも何度か行われています。しかし、それにはおのずと限界があります。今回、テレビやインターネットで一部始終が公開された「事業仕分け」によるムダ遣い放題パフォーマンスに対して、一般の評価は高いものでした。

しかし、ムダ遣い削減額はたったの6700億円にすぎず、平成21年度予算において、自民党や政府のムダ撲滅作業が洗い出した削減額の合計より少ないくらいです。しかも、44兆3000億円という、空前の新規赤字国債発行で歳入の約半分をまかなう平成22年度予算案が、国会に提出されました。

野党自民党はその限界を批判するだけでなく、国民の前にあらゆるデータを提示して、論点をわかりやすく整理したうえで、フリーライダーを容認しつづける権力奪取ゲームをやめて、本格的な「財源づくり競争」に取り組むべきではないでしょうか。

いま、日本の政治の大きな転換点に立って、活力ある日本の経済社会を再構築するために、野党自民党は、何を、どうすべきなのでしょうか。私はちまちました小手先の対策ではなく、自立とセーフティネットとのバランスがとれた社会づくり、それを実現するための王道の政治、政策づくりをめざすべきと考えています。

私自身、官僚のなかの官僚といわれる財務省で23年間揉まれ、政界に入ってからは一回生議員としては異例のポストにつき、党のさまざまな著作物の策定にかかわらせていただきました。日本の政治にとって激動の4年、いろいろな現場も見ることになり、失敗も山ほどしました。

それでも1980年代のはじめから今日まで、重要な政策決定の節目節目に、直接、間接で居合わせてきました。それは私にとってかけがえのない財産でもあります。そういう経験をこれからフルに生かし、政治家として日本の将来を考え、健全な保守であり自由主義である政治の再生に微力をつくしていきたいと考えております。

「もっともらしいウソ」をベースに、堂々めぐりの先送り議論をくりかえすのではなく、日本の「真実の姿」を苦しくても直視し、どうすれば次の世代に「日本」を残せるかを、国民1人ひとりが歴史の法廷に立つつもりで議論する、そうすれば、日本にはまだ未来があります。

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